日中文化交流

中国の旅

台湾旅行記(下)

自然と文化にふれる

 四日目は日月潭の周辺の文武廟を観た。地震から15年を経て、復旧と増築の途上であった。日本以上に様々な神仏が混交で、信仰心はきわめて厚い。東海岸の花蓮あたりから大理石などが出るので、一畳ほどの見事な伝統的仏教画が彫刻され、はめこまれつつあった。
 日本でも最近ではお地蔵さんなど機械彫りがふえたが、今や境内に石工のノミの音はない。どこかの工場でコンピューターが読み込み、立体彫りまでできる。しかし「コピー文化」という言葉がふと頭をかすめる。宗教的施設だからなおさらそう思うのかもしれないが…。
 台中までの途中は松をはじめ盆栽や造園業が多かった。途中、黒檀などの彫刻や土産物店に立ち寄り、台中で昼食。食後30mの巨大な弥勒大仏(布袋)像がある宝覚寺へ。小さな日本式本堂が平泉の光堂のように鉄筋の大きな寺で覆われて保存されていた。額には昭和5年などの落款が見えた。
 近くの孔子廟(多くの町にある)では楷書の「楷」の木が廟の脇に植えられていた。おしゃれな街「精明一街」を見て、バスは台北めざし北上、再び例の「重い」映画『セデック・バレ』を観つづけた。

食事・観光を堪能

 台北に戻った夜ははじめてフリーの夕食だった。翌日の本命でもあるが、ガイドの李さんお勧めの「小籠包」の店に行った。薄いぎょうざ皮に包まれたような白・朱・緑のなんともジューシーな料理に舌鼓、台湾ビールはアルコール度が低くて水っぽいが美味しかった。ホテル「国賓」のすぐ近くに印鑑の店があったので、記念として行きに頼んでおいたのを受け取った。
 五日目、九份観光へ。ガイドさんのジョークは絶好調。台北の空港は「松山」という地区にある。「皆さん、松山から(日本の愛媛県)松山へ飛行機が飛ぶんですよ。李さんは、この旅行中、台北から南下中に「三重」「板橋」「亀山」などを紹介した。今日行く九份方面にも、基隆(港)近くに「汐止」など日本統治下に命名され今も台湾 九份の古い街並は急斜 面に連なっていた  に残る日本の地名が多くある。李さんは(もちろん相手が日本の観光客ということもあるだろうが)「面白いでしょう」と言って嫌悪する所がなかった。そのあたりの思いは、僕には理解しづらいものだった。

活気をおびてきた街

 九份へは約30分。台北〜九份の高速料金は上りは有料下りは無料。距離とかインターの配置でそうなるが、多くは選挙目当てですよ、時の政権がよくいえば民意尊重、あるいは大衆迎合で無料化することが多い、と旅行途中のあちこちでガイドさんから聞いた。世界でも有数の「民主的」政治といわれる所以かも知れない。
 九份はかつて佐渡と同様に1890年の金鉱の発見以来豊富な金を産出し栄えた。採掘され尽くして放棄されたが、名作映画『非情城市』の舞台になったり、台北の衛星都市として再び活気を帯びてきた。かつての富裕な古民家を利用した茶芸館などもあり、まことに情緒豊かな「坂の街」であった。
 台湾での最後のお楽しみは名店「鼎泰豊」での「小籠包」。これを食べるためだけに台湾に来る若者もいるとか…。食後、思わずこの店のブランド入りグッズを購入。商売上手も見習わねば、と思った。
  今回の旅行は、愛知県連としては初めての試みでしたが、台湾への関心が高く、他県からの参加者も含めて27名だった。
 台湾を旅行して良かったと思ったのは、あとから本を読んで分かったことも含めて、(学生時代に少しは学んだであろうに)台湾についてほとんどなにも知らないと実感できたことである。
 中でも大きいことは、台湾が歴史的に原住民と後からの渡来人によって複雑な構成となっていることがわかった。それが台湾の社会を複雑に動かしているらしいことも理解できた。
 我々も外国からの賓客に対して、つい「日本の印象は」と聞いてしまうが、直感的に台湾について言えば、一つひとつのことが、きちんとしていたこと…たとえば人への応対であったり。また、人は生命力にあふれそして優しく感じた。
 中国本土に旅した時にも思ったことだが、その土地ごとの風情を楽しみながら、これからも貪欲に学びの旅を続けたいと思う。
 日中愛知県連常任理事
      木俣 博

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