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南京・毘盧寺渡来の観音像と東山平和堂(上)

毘盧寺をたずねて

 二〇〇八年三月、日中友好協会愛知県連の主催した南京・上海旅行に参加した私は、南京に宿泊した翌朝、タクシーに乗って毘盧寺を訪問した。

 毘盧寺は南京でも最大級の巨刹で、一九三一年から三七年と四六年から四九年までは中国仏教会が置かれ、中国仏教界では中心の役割を果たした。孫文や蒋介石・宋美齢夫妻がたびたび訪れたし、戦後も周恩来をはじめとする来訪者があったと、入り口の看板に刻まれていた。
その後、文化大革命で廃寺となり、建物は工場として使われていた。ネズミが走りまわるような状態だったというが、一九九八年に復興されている。

 大雄殿(本殿)の裏側にある堂宇があったが、早朝のため入ることはできなかった。毘盧寺に行った人の話によると、千手観音像の代わりに写真があって僧侶や信者の礼拝の対象となっているという。集合時間に遅れないように引き上げたが、文化大革命で焼失したという巨大な東山観音は、千手観音の写真と同じ場所に納められていたかは不明のままであった。
 

文革で破壊された高さ10mの毘蘆寺の木造観音

南京事件後の宣撫工作

 一九三七年七月七日に盧溝橋事件をきっかけに日中両軍は全面戦争に突入した。

 八月には第二次上海事件がおきて、名古屋の第三師団は四国の第一一師団(善通寺)とともに上海派遣軍の指揮下に組み入れられ、上海の呉淞上陸作戦をおこなった。この時、上海派遣軍の司令官だったのが、名古屋出身の松井石根だった。

 中国軍の激しい抵抗によって、第三師団などは多数の戦傷者を出し、日本軍は結局六個師団の増援により一一月半ばまでに上海を占領した。

 その後、中支那派遣軍司令官となった松井は、「上海付近の敵を掃滅する」という任務を無視して南京攻略を命じ、一二月一三日南京を占領し、虐殺・略奪・強姦・放火など未曾有の残虐行為をくりひろげた。南京大虐殺である。

 一九四〇年三月には、南京に汪兆銘(号は精衛)が「主席」となり、重慶に移った国民党政府に対し、新たな「国民党政府」を「樹立」した。これは、最近の日本の教科書でも「南京かいらい政権」と書かれているものである。

 当時、松井は軍籍を離れていたが、中国での宣撫工作や日本人戦死者の慰霊などを取り組む「大亜細亜協会」会頭として「大アジア主義」の講演などをしていた。この松井が、名古屋で作られたばかりの「東山観音」に目をつけ、「日華親善」のシンボルとして南京におくろうと考えたのである。

東山観音の移送

 愛知県で養鶏業で成功した伊藤和四五郎は、テレビのCMでも知られている「さんわ」の創始者である。一九二〇年、五七歳で隠居したが、若いころから観世音信仰を生きがいとしていた。一九二七年、六四歳のときかねてからの念願であった大観音像の建立をはじめた。

 仏師門井耕雲に委嘱して、台湾阿里山から檜の巨木を搬入して、日暹寺(現日泰寺)東側につくったアトリエで、五年かかって一木造りの木造を完成させた。高さが三丈三尺(約一〇メートル)あったとされ、東洋一の木造大観音像は通称「東山観音」とよばれた。

 一九三八年には、田代町(現千種区)に大観世音奉安所、書院、庫裏が完成し、大本山総持寺直末寺の護国山瑞雲寺を移して、観音一大聖地を建設するつもりであった。しかし、戦争のために、その後の計画は計画半ばとなっていた。

 中国へ観音像をおくるという話しは、汪兆銘が「かいらい政権」の「主席」となった一九四〇年春ごろからのことと思われる。伊藤和四五郎は、いかなる気持ちだったのだろうか。ともかく、四一年三月三一日に南京「遷都」一周年の記念として、「大東亜建設の聖戦に散った日華英霊の供養のため全日本仏教徒の名で」(名古屋新聞)、毘盧寺へ到着した。

 伊藤は、仏像とともに南京まで行ったが、一九四三年、八〇歳でなくなるまで、魂を失ったように墓まいりで過ごしたという。
西 秀成
(次号につづく)

<2011.4.25>  

千種区平和公園内平和堂

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